給与データをAIに渡さないまま、労務の年1,104時間を削る方法

「うち、給与を扱うので、AIはちょっと」。 バックオフィスのご相談で、いちばん多く聞く断り文句です。

気持ちはわかります。 マイナンバー、口座番号、評価、病歴。 労務は社内でもっとも機微な情報が集まる場所です。 だから慎重なのは正しいと言えます。 しかし問題は、そこで検討そのものが止まることです。 「AIに入れられない」が、いつのまにか「AIは使えない」にすり替わってしまう。

その断り方をしたまま、成果を出した会社があります。 株式会社グッドパッチです。 同社の執行役員CHROである井出日彦氏は、2026年8月18日に公開したnote記事で、労務業務のAI自動化について報告しています。

給与情報をAIに読み込ませることはNGにしたまま、月次タスク127件のうち80件を自動化しました。 月207.8時間かかっていた業務を101.9時間まで減らし、年間換算で約1,104時間を削減しています。 ルールを緩めたわけではありません。 ルールは締めたまま、やり方のほうを変えたのです。

業務を127件に分解する

出発点は、業務の棚卸しです。 勤怠、給与、入社、退社、育休、住民税、書類送付、福利厚生といった月次で発生する業務を、13分類・127件に整理しました。

127件という細かさが、この取り組みの本体です。 通常、業務を書き出そうとすると「給与計算」「勤怠管理」といった大きな塊で20件ほどが出てきます。 しかし、塊のままだとAI化できるかどうかの判断ができません。

給与計算をそのままAIに任せられるだろうか。 答えは絶対にノーです。 でも「給与計算シートに、勤怠システムから確定した時間数を転記する作業はどうですか」と聞けば、それはプログラムに任せられる仕事だという話になります。

同じ業務でも、粒度が変わると答えが変わります。 棚卸しは準備作業ではなく、それ自体が判断なのです。

グッドパッチの事例では、各タスクについて現在どれだけ時間がかかっているかを測っています。 実際、13分類のうち給与カテゴリが月51.8時間で最大だと特定できました。 そのうえで、直接AIで扱える仕事か、AIにプログラムを書かせて社内環境で動かすか、既存システムの**API**(システム同士の機能をつなぐ仕組み)を活用するか、そもそも自動化すべきではないか、という4つの選択肢に当てはめていきました。

AIに渡すのはデータではなく「処理の考え方」

給与データをAIに渡さないまま、労務の年1,104時間を削る方法の解説スライド

AIを使うと聞けば、当然AIにデータを読ませるのだと思うでしょう。 しかし、AIに給与情報を処理させることと、AIを使って給与業務を自動化することは分けられます。

AIには「どのような処理を自動化したいか」「どの列をどの条件で判定したいか」を伝えて、**GAS**や**VBA**の作成を支援してもらいます。 GASはGoogleスプレッドシートを自動で動かす仕組み、VBAはExcelを自動で動かす仕組みです。 実際の給与情報は、会社が利用を認めた環境の中だけで処理します。

AIは実データではなく、処理の考え方やプログラムを扱います。 個人情報は一度もAIの側に出ていきません。

コードを書くのは、AIがいちばん精度の出る仕事です。 給与計算シートへ情報を反映する作業は、VBAによって月4時間から1時間へと75%削減されました。 入社者の基本データを確認して社労士へ連絡する作業も、GASで月4時間から1時間へ減っています。

もっとも効果が出たのは勤怠管理です。 月給者の勤怠確定状況を確認し、未確定の人にリマインドして締めまで完了させる一連の業務が、月16時間から3時間になりました。 勤怠カテゴリ全体では、月40.8時間が10.8時間となり、約30時間・73%減です。 催促は気を遣い、相手によって言い方を変える、人がやるといちばん消耗する仕事です。 ここが自動で回るようになりました。

ただし、AIが生成したコードをそのまま本番運用に使えるとは限りません。 出力結果が正しいかを検証し、実務の正確性と最終的な責任を担うのは人です。 AIは検算役ではなく、下書き役として位置づけられています。

自動化しない45.5時間を残す

この事例で特筆すべきは、自動化しない業務も明確に残している点です。

全体207.8時間のうち、45.5時間は現時点で削減余地がない業務として残しました。 郵送や現金書留、出社対応など物理・現地対応が必要な業務が17.5時間。 個人情報に関するシステムAPIの制約がある業務が6.8時間。 対象者が発生していない業務が7.0時間。 紙や個別対応が中心で自動化が難しい業務が14.2時間です。 現金書留を扱うために人が郵便局へ行く業務は、AIには代われません。

給与カテゴリの削減率が42%にとどまった理由も明記されています。 月51.8時間のうち12.2時間は、制度や運用上、構造的に動かしにくい業務だったためです。

これは自動化が不十分だったということではありません。 法令対応や人の判断、物理的な対応が必要な仕事まで、無理にAIへ置き換えなかった結果です。 やらない範囲を先に決めておくと、やる範囲が安全になります。

そして、空いた時間は人員削減には使われていません。 個別性の高い労務相談、制度運用、法令対応、復職者との面談など、人がやるべき仕事に振り向けられています。

中小企業が真似るべきはどちらか

給与データをAIに渡さないまま、労務の年1,104時間を削る方法の解説スライド

規模のまったく違う会社の事例と並べてみます。 全従業員が約11,000人規模のLINEヤフーは、2026年2月10日の公式リリースで、人事総務領域での生成AI活用を本格化すると発表しました。 2026年春までに新たに10件のAI活用ツールを順次運用開始し、月間約1,600時間以上の工数削減を見込んでいます。

採用戦略検討のためのデータ整理支援や、AI自律型面接官トレーニングなど、専門の組織がツールを開発して社内に展開する形です。

専任のAI開発チームがいない中小企業がそのまま真似できるのは、明確にグッドパッチのやり方です。 実務メンバー本人が127件を数えて、1件ずつ潰していく。 必要なのは予算ではなく、棚卸しの根気です。

社内の人は毎日やっているからこそ、業務を分解できないことがあります。 「これは1つの作業です」と思い込んでいる。 まずは自社の月次業務を、思っているより2段階細かく書き出してみてください。 そこに、AIに渡さなくても自動化できる仕事が必ず混ざっています。

まとめ

「AIに機微情報を渡せない」ことと、「AIを使えない」ことは別です。

  • **データではなく処理の考え方を渡す**:給与情報をAIに読ませないルールのまま、AIにプログラムを書かせることで自動化は進められます。
  • **成果の実体は棚卸しにある**:業務を塊のままにせず、13分類・127件まで分解し、各タスクの時間を測ることで初めてAI化の判断ができます。
  • **自動化しない業務を理由付きで明示する**:物理対応や紙対応など、やらない範囲を先に決めることで、やる範囲を安全に回せます。浮いた時間は人がやるべき仕事に振り向けられます。

AIを個人の工夫で終わらせず、仕組みとして定着させるには、まず数える作業が必要です。 自社の月次業務を、思っているより2段階細かく書き出してみてください。 そこに、AIに渡さなくても自動化できる仕事が必ず混ざっています。

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